ベリーダンスの歴史
ベリーダンスはイスラム時代以前のエジプトより、口承に基づき知られてきた。 ベリーダンスの起源には諸説が存在しているが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。 紀元前5世紀ほど昔のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンスにおいて鏡の前でおこなわれる柔軟体操の姿勢に似ている。 また12世紀から13世紀かけてのペルシアの細密画の中においてもその描写には長い歴史がある。それから18世紀から19世紀のロマン主義運動の間、オリエンタリズムの芸術家達がオスマン帝国のハレムの生活を解釈して描いた絵画のなかに登場したことにより、一般的に知られるに至った。
今日、中東諸国のダンサー達はさまざまな世界博覧会にてこのダンスを披露し始めるようになった。それらはそういった博覧会において、その驚くべき技術の演技を大勢の観衆に支持されたのである。
ダンサーの中には、映画化される者もいた。短編映画「Fatima's Dance」(ファティマのダンス)は広くニコロデオン劇場で公開された。しかしそれは「破廉恥("immodest")」な活動であるという批判をまねき、結局公の圧力により検閲されることになった。
中東が西洋列強による植民地主義の対象となっていた時代、西洋の女性の中には中東のダンスを学び、模倣する者も出始めた。マタ・ハリが最も有名な例だが、フランスの作家コレットもそうであった。たくさんのミュージックホールのパフォーマーたちが「オリエンタルダンス」に従事していたが、時に彼女達の独自の解釈をやめ、本物の民間伝承的なスタイルで行うこともあった。
偉大なダンサーと言われるルト・セイント・デニスw:en:Ruth St. Denis もまた中東の踊りに触発された舞踏に従事していた。しかし、彼女のアプローチはバレエのコンテキストの上に、「オリエンタルダンス」をおくものであり、彼女の目標は全ての舞踏の畏敬される様式のために、全てに超越した舞踏を作り出すことであった。 (1900年代初頭、欧米の社会ではダンサーの女性とは不品行であると思い込まれていた。) 歴史上、ベリーダンスに関連したほとんどのダンスは、「男は男と」、「女は女と」というように性別によって分けられて行われていた。男女混合のダンスは非常にまれな存在であった。 これは「良い女性」は夫以外の男性とは踊らず、さもなくば近親か女性の仲間と一緒に踊るくらいしかないという習慣によるものである。 この習慣は楽団にもおよび、そうして、女性の楽団員のみが女性のダンサーのために演奏をするようになったのである。これは現在も多くの中東諸国で続いている。中には、プロのダンサーが楽団とともに女性の集まりに行き、女性達をダンスにかき立て、それから水煙草の店の男性達のもとへ連れて行き男性客のいる宴会で披露するものもある。
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